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感動の話 《乗客の命を救ったバスの車掌さん》

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                      ねずきちさんのブログより
長崎県の時津町に、打坂(うちざか)呼ばれる急勾配の坂があります。
この坂の途中に、救命地蔵と呼ばれるお地蔵さんがあります。

ここに、身を挺して大惨事をくいとめ、乗客30有余名の命を救った鬼塚道男(おにづかみちお)さんが祀られています。


終戦後、まだ間もない昭和22(1947)年9月1日午前8時のことです。

大瀬戸発、長崎行きのバスは満員の乗客を乗せて、打坂峠を登っていました。

当時のバスは、車体の後ろに大きな釜をつけて、木炭を焚いて走る「木炭バス」です。

木炭バスというのは今のようなガソリンではなく、車体の後ろに大きな釜(かま)を付け、いまで言ったら備長炭のような炭を焚(た)いて走るバスです。

性能はいちおう45馬力とされているのだけれど、釜の炊きが悪いと10馬力出るかで、それで30人乗りのバスを走らせた。

バスの後ろに、ドラム缶みたいな釜を取り付け、そこに薪(まき)をいっぱい入れて釜だきしてエンジンを走らせた。それでもいちおう、薪をいっぱいにすれば50kmくらいの距離は走れたそうです。

馬力は、いまでいったら原チャリ程度です。その非力なエンジンで、30人も乗ったら、満員になる小さなバスを走らせた。

そんな無茶な、なんて言ったらいけません。
ABCD包囲網によって経済封鎖された日本は、当時でも年間2千万バレルの石油が必要だったのに、戦時中の昭和19(1944)年には164万バレルしか輸入がなく、昭和20(1945)年に至っては、輸入量がゼロなのです。木炭だって、走らないよりはいい。

一方、この頃の打坂は、もちろん舗装などなく、道は狭く、くねくねと曲がり、勾配は20度もあったそうです。バスの運転手たちからは「地獄坂」と呼ばれていた。それくらい怖い坂だった。

この道を、大瀬戸から長崎まで一日一回往復のバスが通行していました。

車掌として勤務していた鬼塚道男(おにづかみちお、当時21歳)は、朝8時の大瀬戸発のバスに乗務するため、午前6時に木炭をおこして準備をし、火の調子を整えました。
木炭バスというのはエンジンが温まるまで走れないし、走ってもよくエンジンが止まり、そのたびに釜のなかの火を長い鉄の棒で突いて木炭をならしながら走ります。
釜の火の調子を整えることが、木炭バスの車掌の仕事だったのです。

そのバスが坂の半ばに差し掛かったときのことです。

突然エンジンが故障し、バスが停まってしまいました。

運転手は直ぐにブレーキを踏みましたが、ブレーキが利かない。
サイドブレーキも利かない。
エンジンもかかりません。
前進ギアも入らない。

四重のトラブルです。
ギアシャフトがはずれたのです。

上り坂でいったん停止したバスは、ズルズルと坂道を後退し始めます。

運転手はバスを止めようと必死になります。
しかしバスはドンドン下がって行く。

坂道です。曲がりくねっている。乗客は30人あまり。

運転手は鬼塚車掌に向かって、
「鬼塚!直ぐ降りろ!石ころでん棒きれでん、なんでんよかけん車の下に敷け!」
と絶叫します。

鬼塚車掌はバスから飛び降り、近くにあるものを片っ端から車輪の後ろに置いて、バスを止めようとしました。

しかし急な下り坂で加速がついたバスの車輪は、石を粉々に砕(くだ)き、あと数メートルで高さ20メートルの険しい崖(がけ)のというところまで迫ります。
崖からバスが落ちたら、乗客の命がない!

乗客はなすすべもなくパニックになります。

「こいは、おしまいばい!」

乗客皆が、そう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリのところで止まりました。
運転手と乗客はホッとして「ヨカッタ、ヨカッタ」と我にかえります。

運転手はバスから降り、「鬼塚!どこに、おっとか!」と叫びます。

乗客たちも、降りてきた。

ひとりの乗客が、「バスん後ん車輪に、人のはさまっとる」と指さしました。

車輪の下に、鬼塚車掌が横たわっていました。
彼は自分の体を輪止めにしてバスを止め、崖からの転落を防いだのです。

時刻は朝の10時過ぎです。
自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちた。早く救助に!」と長崎バスの時津営業所に駆け込みました。

時津営業所の高峰貞介は、すぐに木炭トラックに乗って急いで現場に駆けつけました。
すると、バスは崖っぷちギリギリのところで止まっていて、運転手が一人真っ青な顔をして、ジャッキでバスの車体を持ち上げていました。


                               続きは、こちらから↓  峯さんは後に事故の様子と鬼塚さんについて次のように語っています。


たしか、朝の10時少し過ぎだったですたい。

自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちとるばい、早よう行ってくれんか」って、駆け込んで来たとです。

木炭のトラックの火ばおこしてイリイリしてかけつけると、バスは崖のギリギリのところで止まっとったとです。

もうお客はだれもおらんで、運転手が一人、真っ青か顔ばしてジャッキで車体を持ち上げとったですたい。

「道男が飛び込んで輪止めになったばい。道男、道男」って涙流しとったです。

当時の打坂峠は胸をつくような坂がくねくねと曲がっとりましたけん、わしら地獄坂と呼んどったです。

自分で輪止めにならんばいかんと思うたとじゃなかでしょうか。

丸うなって飛び込んで。

道雄の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。

背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。

十秒か二十秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろ、しっかりしろと声をかけて。

9月といっても一日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。

その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇(さいだん)と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たとです。

道男君はおとなしかよか男じゃったですたい。

木炭ばおこして準備するのは、みんな車掌の仕事ですけん、きつか仕事です。

うまいことエンジンがかかればよかが、なかなかそげんコツは覚えられん。
よう怒られとりました。

それでもススだらけの顔で口ごたえひとつせんで、運転手の言うことばハイ、ハイって聞いとったです。

ばってん、そげん死に方ばしたって聞いた時には、おとなしか男が、まことに肝っ玉は太かって思ったもんですたい。

鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最期でした。

闇市への買い出し客や、市内の病院へ被爆(ひばく)した子どもを連れて行く途中の母親たち30人あまりの命と引き換えに、彼は若い命を閉じました。

この事故が起こった昭和22年は日本が敗戦後の虚脱の状態のときでした。
みんな生きていくのが必死でした。まして原爆が落ちて日もない。
他人のことなんかかまってる余裕なんてなかった。そんな時代でした。

乗客は皆、口々に身代わりになった車掌にお礼を述べましたけれど、物資が不自由な時代です。
誰も何もしてあげることが出来ませんでした。


それから26年後の昭和48年、この事件を誰かが新聞に載せました。

たまたまその記事を目にした長崎自動車(長崎バス)の社長は、その日の内に緊急の役員会を開きます。

「私が発起人になる。浄財を集めて、鬼塚さんを供養する記念碑を造ろう!」

一年後、事故が起きた打坂に記念碑とお地蔵さんが建てられました。

以降毎年、鬼塚車掌の命日の9月1日に、長崎自動車の社長以下、幹部社員が地蔵の前で供養を行っています。

また、近くにある時津幼稚園の年長組みの園児たちも、毎年地蔵尊にお参りして花を手向け小さな手を合わせています。

時津幼稚園の山口理事長は「近年、子供の犯罪が問題化しており、園児達に小さい頃から命の尊さを感じとって貰いたい」と鬼塚車掌の話を子供たちにして園児達の地蔵尊へのお参りを実施しているそうです。


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