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プロフィール

taka

Author:taka
ニックネーム:たか
性 別  :男
 血液型  :O型
  現在地  :広島市

73歳の今も、何にでも興味を持ち、いつも熱き心で青春だ。人生は、成るようになるし、また成るようにしかならん。起きるべきことが起きるから深呼吸して
リラックス リラックス。
明日死ぬと思って生きよ
永遠に生きると思って学べ。


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甦れ美しい日本 《大和言葉の世界観》

私たち日本人が日常何思うことなく使っている日本の言葉には、凄く深い深い意味が隠されていることを知り、日本人であることに誇りに思う。
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            「国際派日本人養成講座」より
■目と芽、鼻と花、歯と葉■
 目と芽、鼻と花、歯と葉、耳と実(み)、頬と穂(ほ)。顔
と植物の各パーツが、まったく同様の音を持つ言葉で呼ばれて
いるのは、偶然だろうか?

 万葉学者の中西進氏の説によれば、これらは語源が共通して
いるからだと言う。漢字にすれば、まったく別の言葉のように
見えるが、古代の日本人は、顔のパーツも植物のハーツも、
「め」「はな」「は」「み」「ほ」と同じように呼んで、同じ
ようなものと考えていたようだ。

 たとえば、鼻は顔の真ん中に突き出ている。同様に「花」も、
植物の枝先の先端に咲く。そして岬の端も「はな」と呼ぶ。薩
摩半島の「長崎鼻」がその一例である、さらに「かわりばな」
「しょっぱな」「寝入りばな」など、物事の最初を表す意味も
持つ。

「からだ」とは、幹をあらわす「から」に接尾語の「だ」がつ
いたものである。「から」が植物にも使われた例は、稲の茎の
「稻幹(いながら)」、芋の茎の「芋幹(いもがら)」などの
言葉に残っている。

 古くは手足のことを「枝(えだ)」と呼んだ。「手」「足」
と呼び分けるようになったのは、奈良時代あたりからである。

 もう明らかだろう。我々の先祖は、植物も人体も同じものだ
と見なしていたのである。すべては「生きとし生けるもの」な
のだ。こうして古来の大和言葉の源を辿っていくと、古代日本
人の世界観が見えてくる。

■「生きる」「息」「命」■
「生きる」「息(いき)」「命(いのち)」は、どれも「い」
で始まっている。「いきる」の古語は「いく」であるが、これ
は息(いき)と同根である。息をすることが、生きることであ
る。だからこそ、息をする器官である「鼻」が、顔の中心だと
考えられたのである。

「いのち」の「い」は、「生く」「息」と同じである。そのほ
かにも、「い」は「忌(い)む(慎んで穢れを避けること)」
「斎(いつ)く(神などに仕えること)」など、厳かな意味を
持つ。

「いのち」の「ち」は不思議な力を持つもの、すなわち霊格を
表す言葉で、「おろち(大蛇)」「いかづち(雷)」「ちち
(父)」などに使われている。生けるものの体内を流れる「血」
も、不思議な力の最たるものであった。この「ち」に「から
(そのもの)」を合わせた言葉が「ちから(力)」である。
「ちち(乳)」も、生命を育む不思議なちからを持った存在で
ある。

 したがって、「いのち」は「忌(い)の霊(ち)」とでも言
うべき、忌み尊ぶべき霊力である。そのような尊厳ある「いの
ち」が、草木や人間に宿っていると、古代の日本人は考えたの
である。
■「恋ふ」「思ふ」「悲し」■
「恋い」とは、「魂乞(たまご)い」であり、恋人の魂を乞う
ことだ、というのが、国文学者で歌人であった折口信夫の説で
ある。「恋い」と「乞い」は、古代の発音は多少異なっている
が、だからこそわずかな意味の違いを持つ仲間語だとも言える。

「乞ふ」とは離ればなれとなっている恋人同士が、互いの魂を
呼び合うことだった。魂の結合こそが、恋の成就だったが、そ
れがなかなか実現しない切なさ、それこそが「こひ」だった。

 そう考えれば、「わが恋止(や)まめ」とは、「あなたの魂
を乞う思いが、ようやく止まるだろう」という切なさが伝わっ
てくる。

「恋ふ」と同様な言葉に「思ふ」がある。現代語でも「あの人
を思っている」と言う。「おもふ」の「おも」は、「重い」の
「おも」であり、心の中に重いものを感じとることが「思ふ」
である。「あの人を思ふ」「国の行く末を思ふ」とは、大切な
ものの重みを心の中に感じながら、あれこれと考えることであ
る。

「悲し」という言葉もある。「妻子(めこ)見れば かなしく
めぐし」とは大伴家持の長歌の一節である。「かなし」の語源
は「かぬ」で、今日でも「その仕事はできかねる」というよう
に、力が及ばなくて、果たすことができない、という意味であ
る。「会いたいのに会えない」「幸せにしてやりたいのにでき
ない」、そのような愛するものに対する、切なる悲哀を表す言
葉が「悲し」であった。

■「ねがふ」「いはふ」「のろふ」■
 求婚することを古代の日本語では「よばふ」と言った。「よ
ばふ」とは「呼ぶ」+「ふ」で、「ふ」は継続を意味する。
恋人の魂を「呼び続ける」ことである。

 同様に「妻子の幸せを願う」などと言う時の「願う」は「ね
ぐ」に「ふ」がついた言葉で、「ねぐ」とは「和らげる」とい
う意味。神様の心を和らげて、何度もその加護を願うことだっ
た。神職の一つに「禰宜(ねぎ)」があるが、これは神の心を
和ませて、その加護を願う仕事を指す。

 同様に、「いはふ」は「言う」を続けること。神様を大切に
する気持ちを繰り返し言うことで、これが「斎ふ」という言葉
になった。

「のろふ」は、「のる」+「ふ」で、「のる」を続けることで
ある。「のる」は「祝詞(のりと)」、「名のり」などに、残っ
ているように、「重大なことを告げること」を意味する。転じ
て、神様の力を借りて、相手にわざわいをもたらそうとするの
が「のろふ」である。

 日本の神様は、それぞれに支配する範囲が決まっていて、時
おり、その地に降りてきて、人間の「ねがひ」「いはひ」「の
ろひ」などを聞いてくれる。その神様に出てきて貰うために、
笛を吹いたり、囃したりして、「待つ」ことが「まつり」だっ
た。その動詞形が「まつる」である。

 古代日本人にとって、神様とはそのような身近な具象的な存
在であった。

日本語は歴史的に中国や西洋の概念用語も積極的に取り入れ
つつ、最先端の科学技術論文にも使われている現代的な論理的
言語となっている。と同時に、その根源にある大和言葉は太古
の日本人の世界観・人生観をそのままに伝える詩的言語である。

 これは世界最古の皇室を戴きながら、世界の経済大国・技術
大国であるというわが国の姿に良く似ている。言葉と国柄とは、
お互いに支えあうもののようだ。「祖国とは国語」という言葉
が改めて思い起こされる。
(文責:伊勢雅臣)


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